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つぐみ姫

進級早々、生徒指導室に呼び出されて不安かな?」
あ、いえ、その…はい」
 昨年度に引き続き今年度も私のクラスの担任となった中尾先生が、にっこりと、手を組みながらそう口にする。
別に私はこの先生のことが苦手というわけではない。それでも必要以上に緊張してしまうのは、単に誰に対してもそうであるというだけのこと。むしろ中尾先生は、大分慣れている方だった。
まあ藤沢は…そうだな、成績面はあまり芳しくはないな。本来なら1つ下のCクラスに落ちていたところだ。だが藤沢を、知らない顔の多い環境に置くのは良くないだろうと判断して、Bクラスに残留させた。だがもし…これ以上成績が落ちるようなら、来年は保証できない」
……はい」
 ここ県立頼成高校は、成績順にAからEまでの5クラスに分かれている。
頼成は県内でも下の方の学校なので、そのCクラスの下位、つまり全学年中の半分以下の成績では、短大進学すらも怪しくなってくるらしい。
本来ならCクラスに落ちていたという私の成績がこれ以上落ちるということは、つまりそういうことを含んでいた。もちろん、中尾先生にも迷惑をかけることになってしまう。
それなのに中尾先生はそんなことはおくびにも出さず、すっかり恐縮してしまった私の肩に優しく手を置くと、意外な言葉を口にした。
……なあ藤沢。部活動、やってみる気はないか?」
……え」
 突然のことにどう答えていいか分からずにいると、先生が後を続ける。
元々成績のことをとやかく言うつもりじゃなかったんだ。Bクラスに残したのもそうだが、藤沢はもうちょっと…人に慣れた方がいいと思ってね。同じ目的を持った仲間同士なら、多少は話せるようになるかもしれないと思ったんだ」
それで、部活を……?」
もちろん、それで内申稼いで推薦の足しにという企みがないわけでもないよ」
 言って、先生ははははと笑う。
まあそれは半分冗談だ。でもなあ藤沢、人に慣れれば勉強だって訊くことができるし、もしかしたらそっちにもプラスに働くかもしれん。それは本心だ。そうだな、せめて先生に普通に質問をできるくらいになれればと思ってる」
はあ……」
今日から1週間、各部は新入生向けに体験入部を行う。普段より門は叩きやすいだろう。まあ強制はしないが…できれば考えてみてくれ」


 やってみたい部活…実は、ある。
でも一緒に行ける友達もいなかった私は去年、結局勇気を出せずに入部届を出すことはできなかった。
その後にも、何度も足は運んでみた。けれど部室内から聴こえてくる声に足がすくんでしまい、そうして逃げ帰ることを何度か繰り返す内に、やがて足も遠のいていった。
私はそれを強く後悔していた。だから今年は…今年こそは、勇気を出して入部届を出そう。そう、思った。
……はぁ」
 旧校舎1階最奥。『演劇部』と書かれたその部屋の前に立つと、私はゆっくりと呼吸を整える。
けれど私の意思とは無関係に高鳴る鼓動はそれを許さず、その内視界が、音が、私の感覚から徐々に薄らいでいく。
──いけない。
私は必死の思いで扉の取っ手を掴むと、勢いに任せ一気に開け放った。
……1秒、2秒…ただ沈黙だけが私を迎え入れる。
あまりにも無作法な私に呆気に取られているのだろうか? でも、それにしても静か過ぎる。
私は勇気を振り絞って、恐る恐るその目を開いた。
…………え?」
 けれど視界に飛び込んできたのは、ただがらんとした冷たい空間。
え…え……?」
 部屋を間違えた……? いや、ちゃんと確認はしたし、もう通い慣れた部屋だ。
まだ誰も出てきていない……? 生徒指導室に呼ばれていた私より遅いなんて、体験入部期間にそんなはずはない。
じゃあ、なんで……?
状況が理解できずにしばらくそこで棒立ちになっていると、後ろの方からみしりと床が軋む音が聴こえてくる。
私は怯えるように振り向くと、そこにいた1人の男子生徒と目が合った。
ぇぅ──」
 なんとか声をかけようとするけれど、漏れてくるのは言葉とは呼べないそんな音だけ。
そんな私をその人はしばらく不審そうに眺めていたけれど、やがてゆっくりとこちらに近づいてきた。
どうかしましたか」
あ…と、う……」
 空っぽの部室を指さし、なんとか現状を訴えようとする。
幸いそれに気づいてくれたのか、その人は「ああ」と声を漏らした。
──けれどほっとしたのも束の間。
詳しい時期は憶えてませんけど、去年廃部しましたよ」
はい…ぶ……?」
 視界がぐにゃりと歪み、だんだんと暗くなっていく。もう何も聴こえない。
張り詰めていた私の精神の糸は、ここでぷつんと切れてしまった。


ん……」
気がついた?」
……?」
 目が覚めると、そこは保健室のベッドの上だった。
私…ああ、そうか。演劇部の前で気を失ったんだ。──ううん、元演劇部だった空き部屋の前、で。
どうですか先生、藤沢の様子は」
 そこへ、先生らしき人が保健室に入ってくる。ここからじゃカーテンで見えないけれど、その声から女の人だというのは分かる。
誰だろう? 担任の中尾先生は男の人だし、他に心当たりがありそうな先生は…思い当たらなかった。
今目が覚めたところですよ。疲労による軽い貧血みたいですから、大事はありません」
そうですか」
 カーテンを手で払い、その先生が顔を見せる。
そしてベッド脇の椅子に腰を下ろすと、私に向かってにっと白い歯を見せた。
誰?って顔だね。まあ無理もないか。あたしは音楽担当の桂塔子。音楽は2年の間だけの選択授業の1つだから、今のところ面識はないね。藤沢は音楽選択だってね。一足先に初めましてだ、これからよろしく」
 差し出された握手に、無言で返す。
いまだに事情を飲み込みきれていない私に、桂先生が話を続けた。
演劇部に入部希望だったんだって? そこの毛玉から聞いたよ。ほら、隠れてないで出てきな」
別に隠れていたつもりは」
あんたただでさえ存在感薄そうなんだから、そんなとこにぼーっと突っ立ってりゃ隠れてるのと同じだよ」
 桂先生に言われて、さっきの人が顔を出す。
先生ではないけれど、本当に姿を見るまですぐ側にいたことに全く気がつかなかった。
毛玉というのは言い得て妙で、そう…まるでオールドイングリッシュシープドッグみたいな人だった。
実はあたしね、演劇部の顧問だったんだ」
……あ」
 私はここでようやく事情を理解する。
演劇部入部希望だった私に、この人はその顧問だった先生を紹介してくれたんだと。
人数はまだ多少残ってたんだけどね、なにせやる気のない連中ばっかでさ。3年引退を機にみんな辞めてっちまったんだ」
そう…ですか」
『部を創設するには、5人以上の部員と顧問の擁立が必要』」
……え」
 顔を上げると、毛玉さんが生徒手帳に目を落としてそこの文言を読み上げていた。
部を…創設する? それってつまり……。
そ。なくなっても、やりたいって連中さえ集まればまた部は再建できるんだ。顧問はあたしがやるし、幸い部室もまだ残ってる。あとは頭数だけだよ」
ちなみに、部費、部室等の支援は得られませんが、3人以上いればまずは同好会として活動を開始できるそうです」
同好会でも、部室はあそこを使っていい。あたしが許す。だから3人。藤沢と…他に2人だ。やってみる気はあるかい?」
 私が…部員集めを?
そんなことどう考えたってできるわけがない。だって、演劇部の扉を開くだけでもやっとなんだから。
毛玉が手伝ってくれるってさ」
え……」
……」
あたしも手伝えればいいんだけど、顧問以外の教職が部員勧誘をしちゃいけないことになってるんでね」
で、でも……」
 演劇部に入るのは、私の夢だった。
けれどそんな私のわがままのために、この人を、そして他の人たちを巻き込むなんて……。
……あたしもね、悔しいんだ。だからいつか誰かがこうやって部を再建するために立ち上がってくれるのを待ってたんだよ。見ず知らずのあたしが頼むのも筋違いだけどさ。……前向きに、検討してみてくれないかな。ああ、これも勧誘になっちゃうのかな?」
 そう言って、桂先生ははははと笑う。
軽く言っているようではあったけれど、それはきっと桂先生の本心なのだろう。その表情からは、複雑な感情が見て取れた。
わた、わたしにでき、でき……ぅ」
さぁねぇ。ま、アドバイスくらいはするから、出来る範囲でやってみな。頼んだよ毛玉」
はい」
 私の問いかけを了承と受け取った桂先生。
少々強引にも思えたけれど、多分これで良かったんだと思う。でないと私は、いつまで経っても自分では決めようとしないから。
2-Aの高上です。よろしく」
 その声には感情がなく、表情も髪の毛でよく分からなかったけれど、それでもなぜだか…優しそうな人だと思った。
わ、わた……っ」
 返事をしようとしたけれど、上手く言葉が出てこない。
……そうだ、台詞だと思えばいいんだ。演技だと思えば、きっと言える。
私は何度か深呼吸をして、なんとか気持ちを落ち着ける。
に、2-Bのふじ、藤沢です。よろ、よろしくお願いしますっ」
 この一言は私にとって、とても大きな一歩だった。

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