ひつじ守りの犬
厄介なことになってしまった。
表面にこそそのような感情は出さないが、自分と彼女が作ってきた勧誘ビラの草案を見比べながら、心の中で何度も舌打ちする。
藤沢さん…だったか。保健の先生が名前を知っているくらいだから、よくああやって倒れることがあるのかもしれない。
中尾先生から聞いたところでは、極度の対人緊張。それがまさか演劇部を選ぶなどとは先生も意外だったようだが、とにかくその面倒を担任の小柳先生から頼まれた。
私としては、面識のない彼女に義理を果たす理由など何もない。教師に媚を売るつもりもないからきっぱり断ってしまえば良いのだろうが…どうにも他人の頼み事というのを断れない。
損な性格だと自分でも思う。そして今、かつてない損をしているとしみじみ思う。
藤沢さんが作ってきた手書きのビラを掲げ、一方で、私が昨日作ってきた4枚の案を棄却する。
はっきりと言葉にすることはできないながら、藤沢さんが抗議の意思を示してくる。
彼女の為を思えばここはきちんと言えるまで待つべきなのだろうが、昼休みの時間は限られているので手短に行くことにする。
「 | 公的文書として提出するなら私のでいいでしょう。でも、これは勧誘のビラですから。部に入りたいなと思えるようなものでないと駄目なんです」 |
お世辞ではない。何でも現国担当の小柳先生によれば、彼女は文芸部の方がお似合いだというほど詩的な表現に長けているらしい。
こんな勧誘ビラ程度ではさすがにその全容を見るというわけには行かないが、なるほど確かに文句は上手いし面白い。──悔しいくらいに。
ついでに言うと、決して上手くはないがイラストも入っている。それは私では思いつきすらしないことだ。
「 | では刷れるだけ刷っておきますので、放課後に正門前で」 |
「 | は、はい。あ、あの、その……あっ、ありがとうございますっ、何からな、何までっ!」 |
半ば息を切らしながら、顔を真っ赤にしてそう言ってくる。
まあ今更こんなことを言うつもりはないが、小柳先生とは別の意味で彼女には文芸部の方がよほど似合っていると思う。
私はここで一旦彼女と別れると、職員室へと向かった。
小柳先生から印刷機を動かすためのIDカードを受け取ると、職員室のすぐ隣にある印刷室に移動する。
「 | ……小柳先生。あの高上って生徒、随分と生気がないですけど大丈夫なんですかね」 |
「 | 教師の頼みを愚痴1つ言わずにやってくれる、とってもいい子ですよ、桂先生。ただ……」 |
「 | B組の藤沢さん…とはちょっと違うんですけど、彼も他の子とは全く話さない方で。ですから、藤沢さんのことで中尾先生を訪ねてきた時は少しびっくりしたんです」 |
「 | だからこれは、いい機会だと思ったんです。彼の責任感なら藤沢さんの面倒をよく見てくれるでしょうし、これがきっかけで他の子たちとも交流を持てるようになるかもしれない。そう考えたんです」 |
小柳富美子は白髪染めが良く似合う高齢の先生だ。
本人は小声で返しているつもりなのだろうが、先生の声は印刷室に入った後でも辛うじて私の耳に入る。
もっとも、私の耳も人よりは良いというのもあるのだけれど。
とにかく、心配してくれているのは分かるのだが、それは余計なお世話だ。
こちらにもこちらの事情というものがある。好きで孤立しているわけではないし、こんなことでどうこうなるとは思っていない。
あまり目立った行動をするわけにはいかない。
とはいえ、一度引き受けたことを途中で投げ出すわけにもいかない。
私はそう呟きながら、自分の前髪を指で引っ張った。
さすがに白い歯とはいかないが、にっこりと笑って彼女にビラの一部を差し出す。
対する彼女は口をぽかんとさせたまま、ただ黙って突っ立っていた。
裏声を解いて、普段の声でそう呼びかける。
すると藤沢さんははっとした様子で、恐る恐る訊いてきた。
差し出したビラを一旦山に戻し、その空いた手で目の辺りを隠して見せる。
すると藤沢さんは「あ……」と小さく呟いて、ここでようやっとビラを受け取ってくれた。
──まずは成功だ。
「 | 勧誘は印象が大事ですからね。髪型と…服装を少しいじってきました。すみません、紛らわしくて」 |
まあ、彼女は昨日今日会ったばかりだ。問題はこれから。私の顔を見知った連中を、果たしてこれで騙し切れるかどうか。
私はくるりと彼女に背を向けると一旦深呼吸をして、先ほど彼女に見せたあの笑顔で勧誘活動を開始する。
「 | 演劇に興味はありませんか? どうぞ。演劇部、部員募集中でーす」 |
その後ろでは藤沢さんも声をかけようと努力を始めるものの、案の定というか誰も足を止めるものはいないようだった。
無理もない。普通に歩いていたら素で気づかないくらいの声量なのだから。
涙目になる彼女の肩に、手をぽんと置いてそう呟く。
元より彼女の働きなんて期待してはいない。ビラにしても20枚ほど渡してはあるが、まずさばけるのはその内の数枚だろう。
とはいえ小柳先生に頼まれた以上、その方面のサポートもしてやらないといけない。
「 | 舞台の上にいると思って。……ああ、そうだ。例えばマッチ売りの少女の役になりきってみるのはどうですか?」 |
「 | そう。いっそ、残ったら残ったで燃やして配ったフリをしてしまえというくらいの気持ちでやりましょう」 |
体を小刻みに震えさせながら、気丈に作り笑いをしてみせる。
もう大丈夫…とは到底思わないが、彼女としては上出来な方だろう。
そうして1日、2日と過ぎていく。
そもそも体験入部にも顔を出さずに帰ろうとする人は部活動自体に興味がないことが多いわけで、今のところこれといった手応えはなかった。
それでも、一通りの部を見て回った後の1年生らがちらほらと目立つようになり、ビラを受け取ってくれる生徒の数は次第に増えてきているようだった。
彼女もまた、そんな1人だった。
受け取ったビラを手にそう言ってきたのは、とても小柄な、けれど活発そうな印象の女の子だった。